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芸妓さんの歴史

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日本の芸妓さんの歴史

芸妓の仕事に通じる「芸」をもって座を取り持つという仕事は、古くは平安時代の「白拍子」(源 義経が愛した静御前が有名ですね)が元祖だといわれており、時代を経るに従い、遊女の中から歌舞管弦をもってお客の相手をする踊子が生まれました。


江戸時代の中期 寛永年間(1760年)頃、吉原に「扇屋歌扇」という踊子が出たという記録があり、酒席にはべって遊芸をし、話術巧みに酔客を快適な気分にさせ、三味線にも秀でていたとされています。


この「扇屋歌扇」に触発され、吉原に限らずさまざまな花町で「歌舞音曲」で座を取り持つ女性たちが現れ、それが現在の「芸妓」に変化し発展してきました。

文明開化以降、「花柳界」はますます盛大になり、また、政財界ともつながりを持つようになりました。
伊藤博文の愛人で有名な「マダム貞奴」、桂太郎の愛人であった「お鯉(新橋)」など、有名な芸妓さんも輩出し、この時代、芸妓は世の女の子に人気の職業でした。


大正・昭和にわたり、花柳界は隆盛を極めてきましたが、残念なことに、現在では、遊びの変化や職業意識の変化に伴い、花柳界は少々衰退気味となっている状況は否めません。

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しみず芸妓の歴史

浪曲「清水次郎長伝」の名調子「旅ゆけばぁ~」で知られる清水港。平成15年に静岡市と合併し、現在は静岡市清水区、Jリーグ「清水エスパルス」のホームタウンとしてもその名を知られています。
特定重要港湾を擁す工業都市ですが、もともと「清水港」のスタートは街中をゆったり流れる巴川の河口から始まりました。
当時の河口周辺は海運問屋が数多く立ち並び、まさに物流の拠点として大変なにぎわいを見せていました。芸妓さんを抱える「置屋」もこの地域に集中し、学区名の「清水」が花街の代名詞になっていました。

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戦時下の芸妓衆

ところが、明治22年(1889年)の東海道線の開通に伴い市内の様相が一変し、繁華街は巴川河口周辺から新設された「江尻駅」(旧「清水駅」)へ移り、それにつれて花街も巴川河口周辺から江尻方面へ移って行きました。
その後戦災に見舞われ市街地は大打撃を受けましたが、戦災復興でにぎわう最中、昭和26年に全国でも珍しい「清水芸妓学校」が開校。開校式は「150人を上回る芸妓さんでごった返した。」と、いわれています。

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芸妓学校開校

高度経済成長時代も終わりを告げる昭和40年代の後半になると、今まで続いた好景気の反動で商習慣も変化し、芸妓さんの活躍する機会も料亭も徐々に減っていきました。
昭和48年(1973年)には、経済界の有志が「伝統ある花街の灯を消してはならない。」と芸妓さんの支援組織「清美会」(「静岡伝統芸能振興会」の前身)が発足しました。
また、平成3年には経済界と芸妓衆の共同出資によって新人芸妓を社員として雇用する「清美(株)」も誕生し支援の輪は広がっていきました。
しかし、急激に訪れた景気の低迷は花柳会をも深刻な状況に陥れ、平成16年(2004年)には芸妓会社は解散してしまいましたが、当時の社員芸妓も立派に育ち、今では一本さんとして立派に成長し、清水の花街を支えています。
その後芸妓衆を取り巻く環境はますます厳しいものになっていきましたが、昔からの芸処としての伝統は芸妓衆によって頑なに守られ、「清水をどり」(平成10年をもって休止)や「春の舞」(平成21年をもって休止)、「春の宴」などを通して市民に披露してきました。
最近では、清水港に入港する豪華客船(平成24年:飛鳥Ⅱ、アマデア、コロンバス)への歓迎行事(花束贈呈やクルーズのお客様へ歓迎の舞披露)にも参加するなど観光振興にも大きな役割を担っています。

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港まつりの船の

山車で踊る芸妓衆

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しずおか芸妓の歴史

徳川家康公の大御所政治として知られる静岡市は、その昔「駿府城」を核にした街並整備(区画整理)が行われたことにより、素晴らしい大城下町が築かれ、現在もその面影は色濃く残っています。
特に東海道53次の「駿府宿」として多くの人々が行き交い、慶長13年(1608年)には安倍川畔の一角に大門が建てられ大がかりな廓が形成されました。
それぞれの廓には芸者が居てお客を楽しませたようですが、明治5年(1872年)になると「廓芸者」と一線を画した「まち芸者」が登場、さらに明治10年(1877年)には常磐町の一角に芸妓衆の活動拠点ともいえる「見番」が設けられ、芸妓衆の一元管理を始めました。
この頃には双方の芸者を合わせて20人ほどでしたが、10年後の明治20年(1887年)にはまち芸者も100人に増えていました。当時の記録では料亭も大変な賑わいを見せ、この時代に創業し現在まで存続している老舗の料理店も文献の中には出ています。

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静岡芸妓(昭和10年)

明治22年(1889年)に東海道線が開通すると、東京と名古屋、大阪を結ぶ中継地点として大変な賑わいを見せ、大正から昭和にかけて芸妓数は最盛期を迎えます。
ちなみに昭和13年の芸妓数は260人、静岡芸妓は「芸と行儀」で全国的に高い評価を受け、静岡でお座敷に出ていたというだけでお手見せ(採用試験)免除で各地のお座敷にお目見えしていました。
ところが、昭和15年(1940年)1月に静岡市を襲った大火は市街地中心部に大きな打撃を与え、芸妓衆のシンボルであった見番も消失してしまいました。
更に災害復興が軌道に乗りかけた矢先、昭和20年(1945年)の静岡大空襲に遭遇し静岡市街地は壊滅的な打撃をうけました。
2つの出来事を機に静岡の花柳界は斜陽の一途をたどり、昭和60年(1985年)には再建した見番も売却するなど徐々にその力を失い、この時点で芸妓の数は13人、平成23年(2011年)になるとわずか2人だけになってしまいました。

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明治中期の町芸者

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